ご利用案内
旧水戸農業高等学校本館
歴史館の敷地には、1899(明治32)年から1970(昭和45)年まで、茨城県立水戸農業高等学校がありました。
この建物は旧校舎本館を復元したものです。(館内にて展示は行っておりません)
茨城県立水戸農業高等学校と歴史館
現在の茨城県立歴史館(以下、「歴史館」)があるこの地には、昭和45年(1970)2月まで、茨城県立水戸農業高等学校(以下、「水戸農業高校」)がありました。
ここでは、水戸農業高校創立100周年記念誌『創立から現状まで―明治28年~平成7年―』を基に、水戸農業高校の移り変わりと歴史館との関わりについてご紹介します。
創立100周年記念誌『創立から現状まで―明治28年~平成7年―』(一部)
平成7年11月7日、茨城県立水戸行業高等学校創立100周年記念事業実行委員会(当館蔵)
1 「農事講習所~茨城県簡易農学校」時代 / 明治20年(1887)~明治31年(1898)
明治20年(1887)頃までは、主に目分量手加減といった慣行農法が行われていました。
明治20年5月14日、安田定則知事から「県農事巡回教師」に任命された織田又太郎は、県内各地を巡回し、農事会(農談会)の指導に当たりました。
この講習会では「科学的近代農法」が教授され、すぐれた成果を収めていたころから、全国から注目されていました。
明治28年(1895)、より高度な農事講習所設置の要望を受け、「中央農事講習所」が設立されました。
(上は、茨城県中央農事講習所。明治33年(1900)からは農事試験場となる。)
ここでは、地方農事講習所で受講し、修了した者を収容し、高度な学理と実際が教授されました。
明治29年(1896)、文部省令第19号「簡易農学校規程」に基づき、茨城県簡易農学校が設立されました。
(上は、第1回卒業記念写真)
土地・建物・器機・器具等は、中央農事講習所の物を引き継ぎました。
農事講習所から簡易学校(学校組織)に変更したことで、国庫補助を得ながらの学校運営が行われました。
2 「茨城県農学校」時代 / 明治32年(1899)~明治33年(1900)
明治32年(1899)、茨城県簡易農学校が甲種農学校に昇格して、「茨城県農学校」と改称されました。
当時、簡易農学校に在校していた生徒及び卒業生を2年に編入させ、新たに1年生を募集しました。
(上は、開校式記念写真)
農学校の敷地は、東茨城郡常磐村(現在の水戸市緑町、歴史館の敷地に当たります。)と決まり、 直ちに校舎の建築が開始されました。
新校地は、常磐公園に近く、自然の美に恵まれた閑静な場所で、農学徒としての生活を楽しむのにふさわしい環境でした。
3 「茨城県立農学校」時代 / 明治34年(1901)~大正11年(1922)
明治34年(1901)、文部省令第11号に基づき、校名が茨城県農学校から「茨城県立農学校」に改称されました。
(上は、明治35年(1902)ごろの茨城県立農学校)
県下唯一の県立農学校として本県農業界に輝かしい足跡を残す俊秀を養成しました。
当時、現在のような学区制はなく、県内各地はもちろん、栃木県や福島県からも入学者がありました。
(上は、校舎全景。左:校舎の手前にあるのは「奉安殿」、右:手前の「表門」は、現在の「歴史館 南門」)
4 「茨城県立水戸農学校~茨城県立水戸農業高等学校」時代 / 大正12年(1923)~
大正12年(1923)、郡制廃止によって6校の郡立農学校が県移管されたことに伴い、茨城県立農学校は「茨城県立水戸農学校」と改称しました。
この時代は、第一次世界大戦後の経済の発展と恐慌、そして満州事変の勃発後の軍国主義的な風潮の中で、世の中は大きく変わり、やがて大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発とともに、日華事変以降の食糧不足は拍車をかけられ、食料増産のため、日も夜もない日々が続きました。
戦争の苛烈を増すにつれて、報国隊が結成され、県内各地はもちろん、遠く北海道まで援農隊が派遣されるといった激動の時代でした。
(上は、昭和20年(1945)8月2日未明の空襲にも焼失をまぬがれた本館(明治33年(1900)建築))
(上は、校舎配置図。破線内は焼失校舎)
昭和23年(1948)、学制改革により、県立水戸農学校は新制高校に移行し、校名を「茨城県立水戸農業高等学校」と改称しました。
(上は、木ノ折町校舎)
全日制(農業科・養蚕科・農業土木科・畜産課・農産加工科)1405名、定時制400名
「スポーツをもって本校教育の基本とする」と体育奨励を宣言し、「天下に水農あり」の名声を広める黄金時代を築きました。